彼女の名は?
アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ。
14世紀後半から頭角を表し、約400年ものあいだ、
フィレンツェに芸術と繁栄をもたらしたメデイィチ家。
正統な血筋を受け継いだ最後のメディチ家の末裔が、
このアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチです。
大公であった弟、ジャンガストーネに1737年に先立たれ、
子供がいなかったこの大公の死により、
そして、彼女も子供に恵まれなかったために、
メディチ家は御家断絶の危機に立たされます。

(2月18日のアンナ・マリア・ルイーザのための行事の様子)
誰が引き継ぐのか?すったもんだの話し合いの末、
メディチ家を引き継いでトスカーナ大公になるのは、
政略結婚なので友好な関係を保ち続けていた、ロレーヌ家に決定。
ちなみに、跡を継いだ人物は、
ロレーヌ公子フランツ・シュテファン。
オーストリアの女帝、マリア・テレジアの旦那さんです。
ということは、ハプスブルグ家とも繋がることになります。
でも、フランツ・シュテファンがフィレンツェに来たのは、
ただの1度きり。1739年が最初で最後。
トスカーナ、そしてフィレンツェの栄光は過去のものとなり、
国は貧困の窮に瀕することなります。
アンナ・マリア・ルイーザは、1743年に亡くなるまでの間、
この状況を目の前にし、どんな気持ちで過ごしたのでしょう。

(2月18日のアンナ・マリア・ルイーザのための行事の様子)
彼女にできること。 いまの彼女にしかできないこと。それは、メディチ家が長い年月をかけて蒐集した
膨大なコレクションを守り抜くこと。
自分がこの世からいなくなると、断絶する運命のメディチ家。
かつての栄光と繁栄は遥か遠い昔。
ロレーナ家がメディチ家の全財産を継ぐことになれば、
コレクションはローレナ家の領地であるオーストリアに運ばれること必至。
最後の大公が亡くなった1737年に、
アンナ・マリア・ルイーザは、「公国の協約」を締結させます。
協約の内容は、
"メディチ家の蒐集した全芸術財産を、公国外に出すことを厳禁し、
いかなる理由においても、国外に持ち出すことは禁じる。"
これにより、メディチ家を引き継ぐ大公達が、
メディチ家のコレクションにむやみ勝手に
手をつけることができなくなったのです。
彼女の協約がなければ、今頃は、
ボッティチェッリの春やヴィーナス誕生、
ミケランジェロのダビデ像は
ウィーンにあったかもしれません。
ウフィッツィ美術館、パラティーナ美術館、アカデミア美術館
に代表される素晴らしい絵画や彫刻は、フィレンツェの芸術の顔。
これらの芸術作品が流出されることを免れ、
いまでも、たくさんの人々を魅了するフィレンツェがあるのは、
メディチ家の末裔、
アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチの功績にほかなりません。

(2月18日のアンナ・マリア・ルイーザのための行事の様子)
2月18日毎年、この日は彼女の死と功績を讃える行事が行われます。
メディチ家礼拝堂まで中世装束を纏った行列があり、
11時前後に礼拝堂にて献花の儀式。
通常だと、メディチ家礼拝堂とサンロレンツォ教会への入館は
無料になります。
アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチの墓碑は
君主の礼拝堂(メディチ家の礼拝堂)の入り口、
上の階へ通じる右階段の手前にあります。
彼女の彫像があるのですぐに分かるでしょう。
君主の礼拝堂へ行かれる方は、フィレンツェの芸術を守った
この女性の存在を覚えておいてください。
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